直線上に配置

近江の街道
東海道(1)
琵琶湖の周辺(36)<山科〜大津>Cの地域
平成18年9月16,30日撮影) <音声あり>

 近江は,古来から東西の地域を結ぶ交通の要衝にあたり,左図のように,五街道に属する東海道中山道の他にも,数カ所の街道が整備されてきました。

 これらの街道やその周辺には,昔からいろんな人々が関わりを持ってきた歴史的な遺跡や文化が多く残っています。
しかし,普段それらに接する機会はほとんど無いというのが現状です。

そこで,一度これらを見て回りたいと思います。ただし短期間では,とても不可能なので,時間をかけて,ゆっくりと行く予定です。


今回はまず,東海道の
山科から大津あたりまでを,
(A),(B),(C)の3地域に分けて紹介しています。


今回の東海道  京都の三条大橋を出た東海道は,山科を過ぎて滋賀県内に入り,ほぼ国道1号線に沿って東進します。そして逢坂の峠を越えて,国道161号線にそって坂道を下り,琵琶湖を目指します。
その後,琵琶湖の手前,
大津市札の辻交差点で右折した東海道は湖岸と並行に進み,膳所(ぜぜ)の義仲寺まで来ます。
 


Cの地域  旧東海道は国道1号線から別れて,国道161号線に沿って琵琶湖を目指します。

最初に目に入るのは
安養寺(あんようじ)(1)です。ここは,蓮如上人にちなんだお寺です。
次の(2)は,
関蝉丸神社下社です。B地域(7)関蝉丸神社上社と対になっています。
更に坂を下ると,足下にJRの
逢坂山トンネル(3)が見えます。
しばらく行くと,左手山側に,
長安寺(4)が在り,近くに犬塚(5)があります。

道路右手に明治天皇聖蹟碑と
大津宿本陣跡(6)があります。
(7)
札の辻交差点です。旧東海道はここで右折します。この札の辻交差点は,湖西を通る北国海道(西近江路)の起点にもなっています。

旧東海道を更に進むと
ロシア皇太子遭難の地(8)があり,蹴鞠(けまり)神社として有名な平野神社(10)があります。

その先の
石場の常夜灯(11)(現在は,昭和35年頃に新しく埋め立てされた湖岸の公園に移設されています)をすぎると,義仲寺(ぎちゅうじ)(12)が見えて来ます。

安養寺(1)犬塚(5)  旧東海道沿いに安養寺(1)関蝉丸神社下社(2)長安寺(3)犬塚(5)がならんでいます。
安養寺(1)
安養寺は浄土真宗本願寺派のお寺で,行基作の阿弥陀如来坐像や蓮如が身代わりに彫ったという蓮如上人像があります。また,比叡山僧兵から蓮如の命を守ったという身代り名号石」,「立聞(たちぎき)観音なども有名です。
蓮如上人は本願寺八代目の門主で,近畿〜北陸などで布教活動を行い浄土真宗を盛立てました。) 
本堂階段の右下には「逢坂」のいわれを刻んだ石碑(右)と,「蓮如上人○跡」と刻んだ石碑(左)があります。

関蝉丸神社下社(2):ここは,芸能の神様を祀っています。
関蝉丸神社下社の石碑(右),常夜灯と鳥居を京阪電車京津線が分断しています。入り口に,「音曲藝道祖神」の石碑(下)があります。要は芸能の神様です。
境内はやや薄暗く,右手中央には,紀貫之の和歌(左下参照)に出てくる関の清水在りますが,水は枯れて出ていませんでした。 本堂です。この神社は,平安時代に,逢坂山の坂の守護神として,山上・山下に祀られ,その後に蝉丸の霊が合祀されたようです。
紀貫之の歌(「 逢坂の関の清水に 影見えて 今やひくらん 望月の駒」)を表した句碑があります。 重要文化財の時雨灯籠で,六角形の石の灯籠であるのが珍しいようです。鎌倉時代の作です。 境内には,貴船神社も祀られていました。

長安寺(4)
京阪電鉄の踏切の向こう,階段の登り口に「長安寺西国33ヶ所」とあります。
長安寺の前の名称は関寺といい天延4年の大地震以前はかなりの大寺院であったようです。日本三大仏の一つである関寺大仏も在ったようです。
関寺の
階段の途中にある,石造の「牛塔」(霊牛の供養塔)です。鎌倉時代の作で,高さ3.3mあり,重要文化財になっています。
   (立っているのは私です(^^)/)
階段を上りきったところの様子。比較的小さいお堂(左)があり,その他,小野小町の供養塔や一遍上人供養塔があります。
秋には紅葉が美しそうです。

<犬塚>(5)
犬塚のケヤキ(大津市指定文化財)」には,蓮如上人の身代わりに毒の入った膳を食べて死んだ犬を,ケヤキを植えて弔ったという話が伝えられています。

推定の樹齢:500年
幹周り:6m
樹高:18m

東海道線逢坂山トンネル(3)大津宿本陣跡(6)坂の途中の様子です。
大津駅のすぐ近くの逢坂山トンネル(3)の入口で,旧東海道がJRをまたいでいます(左の橋。前方は逢坂山方面,手前側は札の辻側)。トンネルは3本あり,左2本は明治時代のもので,レンガ作りです。
トンネルの上には京阪電車の線路が

あります。
大津宿本陣跡の石碑(左)(6)明治天皇聖跡の石碑(右)です。
江戸時代,この辺り(八丁通り,現在は御幸町)の両側には東海道を行き交う旅人の旅館が軒を連ねており,大名などの宿泊場所である本陣があったようです。本陣は,明治元年の明治天皇の行幸にも使われました。
大津宿本陣跡(6)を過ぎ,旧東海道の坂道を下る京阪電車です。
(前方は札の辻(7)(琵琶湖)方面)

札の辻交差点(7)で右(東)に折れ,琵琶湖岸に平行に進みます。
坂を下ってきて,札の辻交差(7)に至ります。右折すれば東海道,左折すれば北国海道(西近江路)です。札の辻は,江戸時代に江戸幕府の高札がここに掲げられていたことから起こった地名で,西南角には,旅人に人足や馬を提供する人馬会所も置かれており,大津町随一の賑わいであったようです。
札の辻を過ぎて,旧東海道側を見たところ(京町通り)です。狭いですが,まっすぐな道が続いています。(昔は,現在の道幅よりさらに2m(片側1mずつ)狭かったようです。)

当時の町屋の様子を伝えています。表に,文化庁認定の「登録有形文化財(第25−0185号)」である旨の看板が掛けられています。
(注)江戸時代に宿場町,港町として栄えた大津町人の手により,13基の曳山が巡行する大津祭りが始められました。中には,ベルギー製の垂れ幕のかかったものもあり,当時の繁栄ぶりがうかがえます。

此の付近,露国皇太子遭難地の碑(8)です。

明治24年(1891),この地を訪れたロシアのニコライ皇太子に,警備中の巡査がサーベルで切りつけた大津事件の発端となった場所です。当時ロシアは強大国で,日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため,国民を不安のどん底におとしいれました。 大国ロシアを恐れた松方内閣は,皇室に対する大逆罪を適用し死刑を画策。しかし,大津地裁で開かれた大審院法廷ではこれに屈せず謀殺未遂罪を適用し,無期徒刑の判決を下し「司法権の独立」を貫き通したということです。

<平野神社>(9) 平野神社は,道と蹴鞠(けまり)の神社です。
平野神社道と蹴鞠の神社です。祭神は,大鷦○皇命(おおきぎスメラミコト;第16代仁徳天皇)と猿田彦命です。この神社は,前者を天智天皇の大津宮への遷都に伴う守護神として藤原鎌足により創建され(668年),また後者は,「道」びきの神・蹴鞠の神として天正元年,この平野神社に合祀されたようです。8月9日の祭りでは,本殿前広場において,烏帽子・水干・鞠袴・鞠沓を着用した競技者が輪になって「アリ,ヤウ,オウ」という三声の独特のかけ声で鹿皮製の鞠を蹴りあう蹴鞠奉納が行われます。

<石場の常夜灯>(10)
当時(江戸時代)は,石場辺りが琵琶湖岸になっており,対岸の矢橋(やばせ)との渡し船の着き場(港)が在ったようです。江戸時代,京都からの旅人は,ここへ来てやっと琵琶湖を眺めることが出来ました。

この写真は現在の湖岸で,昭和35年頃以降に埋め立てされたようです。対岸に草津市矢橋が見えます。この港からは約5kmの直線距離で,本来の東海道(瀬田の唐橋経由)を行くよりだいぶ時間短縮でしたが,事故も多く,そんなところから急がばまわれのことわざが生まれました。
(見上げているのは私です)
  石場の旧東海道沿いにある常夜灯 左の常夜灯の近くにあった高さ8.4mの常夜灯は,現在のこの琵琶湖畔(11)に移されています(昭和43年)。

<義仲寺>(12) ここには木曽義仲松尾芭蕉の墓があり,巴御前山吹御前の供養塚もありました。
義仲寺の前
木曽義仲の墓
松尾芭蕉の墓
寿永2年(1183),5万余の軍勢を率いて平家を追い散らした木曽義仲は,入洛し征夷大将軍になりましたが,翌年,鎌倉の源頼朝の命を受けた範頼,義経軍と戦い,この地(粟津野)で討ち死しました。享年31歳。征夷大将軍になってわずか10日でした。
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 この時の様子として,義仲は部下6騎とともに京を逃れ,山科から大津に入り,この地で今井兼平と合流。義仲は巴にどこかへ落ち延びるように諭し,巴はなくなく武具を脱ぎ捨て,東国へと落ち延びていき,義仲は討ち死にしました。寺伝によると,義仲が死んだ後,毎日美しい尼が墓参りに来ていて,不思議に思った里人が名前を聞くと「名も無き者」と答えるだけであったそうです。それが後に義仲の愛妾巴御前であろうと伝えられています。
(注)( 巴御前の弟でもあり,義仲と共に自害した今井兼平の墓は,
東海道(2)に載せています。)
巴御前の供養塚

木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが,義仲が強いての言葉に最後の戦を行い,敵将恩田八郎を討ち取り,涙ながらに落ち延びた後,鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり,義盛戦死の後は尼僧となり各地を廻り,当地に暫く止どまり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それよりどこともなく立ち去り,信州木曽で九十歳の生涯を閉じたという。(案内板より引用)

義仲の妻または妾とされる山吹の供養塚
義仲には妻とも妾とも云われる山吹なる女性がいましたが,義仲に逢うため大津まで来たものの,義仲戦死の報に悲嘆し,自害したとも捕らえられたとも云われます。
芭蕉の句碑
(左)「古池や 蛙飛び込む 水の音
(右)「
旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

貞享年間,芭蕉はこの寺を宿としていましたが,元禄7年に大阪で逝去(享年51歳)の際に,その遺言によって,ここに墓が建てられたようです。

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<参考文献>
1. 「<近江歴史街道>近江東海道」,木村・樋爪・八杉・米田著,1996,3,30,サンライズ出版刊
2.. 義仲寺案内(義仲寺発行のパンフレット)


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